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ベリー・ブラザーズ&ラッドは、英国最古のワイン&スピリッツ商であり、創業以来300年以上もの間、同じ店舗で営業を続けています。
ベリー・ブラザーズ&ラッドの歴史は、1698年、ボーン未亡人によって、ロンドンのセント・ジェームス街3番地にて始まりました。今日もなお、ベリー家とラッド家の子孫により、その家族経営のワイン商は引き継がれています。
1765年には、'コーヒーミルの看板'を掲げ、評判の高い'コーヒーハウス'(後に、ブードルズやホワイトのようなクラブとなる)であり、大きなはかりでお客様の「体重測定」を行っていました。お客様の測定記録には、ロード・バイロン、ウィリアム・ピットやアーガー・ハーンなどの名が記されており、今日に至るまで3世紀以上の歴史が刻まれています。
ベリー・ブラザーズ&ラッドが初めて英国王室にワインをお届けしたのは、ジョージ3世時代にさかのぼり、そして今に続いています。最初の王室御用達指定を賜ったのは、1903年のエドワード7世の頃で、現在は、エリザベス女王陛下とチャールズ皇太子殿下からそれぞれ御用達指定を受けています。
1923年には、初めての無着色スコッチとして、カティーサーク・スコッチ・ウィスキーを造りました。近年では、良いヴィンテージのシングルモルトが、ベリーズ・オウン・セレクションのレーベルで発売されています。
歴史や伝統的なサービス、品質の維持、出自と保管に重きを置きつつ、最も革新的で近代的なワイン&スピリッツ商を目指しています。
今日では、香港のショップの他、日本に支店を構えています。また、2つのワインスクールを運営し、ロンドンのセントジェームス街の荘厳なアーチ型天井のセラーには、特別なファインダイニングを備えています。
一人でも多くのお客様にワインの魅力をお伝えすること、より美味しく飲んでいただくために最善のサービスとアドバイスを提供することがベリー・ブラザーズ&ラッドの使命であると考えています。
1660年、世襲的君主の復活直後の頃を想像してみてください。セント・ジェームス・パレスを背に立ち、ピカデリーの方向を北に見ると、そのすぐに左側にバークシャー・ハウスが見え、右にはパル・モールと、チューダー様式の建築物が立ち並ぶセント・ジェームス街が現れます。
1698年、ボーン未亡人が食料雑貨店(コーヒーミル)を開くためにセント・ジェームス街3番地を独占したときも、ほとんど変わらない光景でした。今日、1690年代と同様に、コーヒー・ミルの看板は、今もなお、そこに掲げられているのです。
3番地はボーン未亡人の手によって守られてきましたが、その後、娘、エリザベスがウイリアム・ピッカリングに求愛されました。また、1731年、現在はピッカリング・プレイスとして知られているピッカリング3番地を貸してくれていた下院議員のトーマス・ハンマー侯爵からも求愛されました。
1734年、ウイリアム・ピッカリングが亡くなると未亡人エリザベスがそのビジネスを引き継ぎ経営を担いました。そして1737年、息子のウイリアム・ジュニア・ピッカリングとジョン・ピッカリングに食料雑貨店とあの"盾形紋章の画と紋章の服飾品"を譲りました。
今日でも、セント・ジェームス街から入る1階に足を踏み入れると、有名な訪問者たちが大きな測りで体重を計り、羽ペンで体重を記録していた日々にいるような気分を味わうことができるでしょう。
ジョン・ピッカリングは1754年、適切な相続人が無いまま、彼の兄弟ウイリアムはメアリ・クラブとして生まれた母親を通して、遠縁のジョン・クラークをパートナーに選びました。
クラークは1788年に亡くなり、息子がいなかったため、エクセターでワイン商をしていたジョン・ベリーと結婚していた娘メアリーとその息子ジョージ・ベリーに譲りました。当時まだ1歳でしたが、すでに祖父によってあのコーヒー・ミルの跡取りとして指名されていました。
ジョン・クラークの孫のジョージ・ベリーは、1803年、まだ16歳でありながら、2日間かけエクセターから旅をしました。7年間は、見習いとして働き、1810年までにはセント・ジェームス街3番地周辺でその名を知られるようになりました。
1838年に、チャーチスト暴動がイギリスの地方で猛威をふるって、ロンドンに衝撃を与えました。ジョージ・ベリーは、 友人、ルイ・ナポレオン王子に同伴し、特別巡査に就任しました。 このルイ・ナポレオン王子(1851 年フランス第二帝政の皇帝、ナポレオン3世として知られる)は、3番地とは深く関係しています。2年間ロンドンに滞在したおり、(評判だった)"スタンダード"の編集者シェラーとのいろいろな密会に地下貯蔵セラーを使用していました。
1854年、ジョージ・ベリーが他界し、二人の息子、ジョージとヘンリーに引き継がれました。こうして、"ベリー・ブラザーズ"のスタイルが出来上がり、90年間ほぼ変わることなく受け継がれています。
ジョージ・ベリー2世は7人の子供がいました。古い分家は、その代表となるためヘンリー・ベリーが選ばれ、兄弟の本家は若く、12人子供のうちの一人、ヘンリー・パーシヴァル・ベリーによって後継されることとなりました。
やがて、これらの2人のいとこ、年上のフランシス・ローレンス・ベリー、および年少のチャールズ・ヴァルター・ベリーが後任となりました。
この時期までには、フランス、ドイツの伝統的な地域のワイン、ブランデー、リキュール、及びウイスキーが中心の価格表に、コンスタンシア、トカイ、トスカナのモンテプルチアーノなどの珍しいワインも加わるようになっていました。ヘンリー・ベリーこそがこの方針を確立した一人であり、1880年から1907年の間、この3番地を取り仕切っていました。 しかし、フランシスとヴァルター・ベリーの二人は、会社に変革が必要な時期になったと感じていました。
キングス・ジンジャー・リキュールの誕生は、それぞれの世代の違いと強みを示しています。 エドワード・キング7世の治世初期、ベリーズに王室の医師から連絡がありました。"馬なしの馬車(自動車)"で外出した際、王様が寒気を感じており、それを治すために何かないだろうかというものでした。ヘンリー・ベリーは直ちに"ジンジャー・ブランデー・スペシャル・リキュール"と呼ばれていたオリジナルのブランデーとしょうがのリキュールをつくりました。その3年後の1906年、そのリキュールは価格表に加えられ、1934年、「キングス・ジンジャー・リキュール」に名前を変更し、現在に至っています。
1914年まで、ヒュー・ラッドはワイン取引業界で働いていました。まずはロンドン、そして欧州全土。1903年からは彼の父とともにノリッジのワイン商、R.G.ラッド&サン社で働いていました。しかし、戦争が終わると、ノリッジはワインにとって大切だった場所を手放すこととなりました。父との同意書によってメジャー・ラッドはベリー・ブラザース・アンド・カンパニーのジュニア・パートナーとして働くためにロンドンへやってきたのです。
彼が3番地にやってきたのは、まさにタイムリーでした。 ウォルターとフランシス・ベリーのようなボルドーの赤ワインに対するすばらしい審美眼をもっていました。これこそ、ベリー・ブラザーズの必要条件だったのです。
しかしながら、彼には、また、ドイツのワインに関するまさるものがない知識がありました。ラインとモーゼルのあらゆる領域のブドウ裁培、アルコール発酵、および開発のすべての知識に明るかったのです。
彼の味覚は彼の知識と同じくらい正確でした。そのため、1921年の傑出しているヴィンテージが市場に出たとき、彼のアドバイスは、ベリーズのセレクションをさらに優れた、素晴らしいメリットを得ることを可能にしました。これまで以上に、その評判をさらにゆるぎないものにしたのでした。
1923年3月23日、ベリーにとって重要な歴史が刻まれました。
ウィスキーについて議論する着席の昼食会は、スコッチ作りの有名なアーティスト・ジェームス・マックベイとパートナーたちが同席をして行われました。ベリーズは既に独自のスコッチウイスキーブランドを顧客の自宅に販売していましたが、戦前、米国のプライベート・カスタマーに少量だけという具合でした。酒類醸造販売禁止という悲惨な実情はいつまでも続かないと兆しがあり、輸出のため何か新しく独特なブレンドを求めていました。
いとこのウォルター・フランシス・ベリーが素晴らしいコニャックの権威だったように、最も高質で最もデリケートなウィスキーだけからブレンドするべきだという意見を支持していました。自然な淡い色で瓶に入れることになりました。これまで彼らが楽しんでいた、優しくて香ばしい味わいを壊し、マスクをかけてしまうキャラメル色を避けるためものでした。しかしながら、それは重くてどっしりとした、おしゃれでダークなスコッチ・ウイスキーとはかけ離れていたのです。
新しいそのスコッチ・ウイスキー・ブレンドが欠いていたすべてのものは、名前とシンボルでした。ちょうどそのとき、ちょうど長い年月を経て戻ってきていた有名な快速帆船「カティー・サーク」がポルトガル旗の下、取引されるというニュースでもちきりでした。優秀な船員だったマックベイは、この新しいウイスキーのため、賞賛に値する名前であると示唆しました。また、何もよりスコットランドらしく、ロバート・バーンズの「タム・オー・シャンター」 から取られていたのです。(カティー・サークは「短いシュミーズ」を意味します)。
また、マックベイはラベルのデザインもかって出ました。彼が描いたものはほとんど変わることなく、手書きの文字と"Scots"さえも、今日もそのまま使われています。
マックベイは、また年号にクリーム色の陰をつけることを提案しましたが、偶然にも印刷会社が華やかな黄色を使用したため、それを採用することにしました。
2回の戦争の間に、ベリー兄弟とヒュー・ラッドは着実に、より大きな価値ある企業を確立ししました。 1931年、彼らはウィリアム・ピカリングとジョン・クラークによってもたらされた3番街を最大限に広げました。 この恵まれた環境により、1731年、元々の土地所有者の直系子孫であるチャールズ・バンベリー卿が新たな借地契約にサインをしました。しかし、会社が自由土地保有を取得したのは、1966年のことです。
1931年の調印を祝うディナーを準備したダフティ軍曹は、3番地でシェフとして39年間勤め、その料理の腕前は伝説となっていました。また、ストレンジとブラウンの二人もその時代長きに働き、お客様を満足させ続けた素晴らしい人物でした。
成功は一家を繁栄させ続けましたが、常に好調だったわけではありませんでした。1936年、引退の5年後、59歳でフランシス・ローレンス・ベリーは突然他界してしまいした。彼の長男ジョージ・ベリーは既にウォルターの息子、レジナルド・ベリーとともにジュニア・パートナーに成長しており、一家の栄華は約束されているように思われていました。 しかし、1939年3月、体を壊したレジーは引退することになり、1941年、アフリカ北部で活動していたジョージ・ベリーは命を落としました。また、ジョージの弟アンソニーが会社に入ることになっていましたが、R.N.V.Rの徴兵として、任務遂行のために呼び出されてしまいます。 そして、間もなく、ウォルター・ベリーも去ってしまったのです。
社員が大幅に減った状態の中、ヒュー・ラッドが彼らとともに経営を管理しましたが、 それはあまり楽しいことではありませんでした。次から次へと起こる問題は、概して悲惨なもので、唯一の穏やかな事は大切な顧客をもてなすことでした。
終戦を迎えた直後、3番街の経営陣は、兵役を終えて1943年に戻ってきたジョンの息子、ヒュー・ラッドの指揮の下、アンソニー・ベリー、ケネス・アップジョン、およびレオナルド・ロウエルとなりました。
法律と財政的な理由で、1943年、会社は有限会社になりました。 ヒュー・ラッドが会長と組織統括ディレクターを兼任しました。ケネス・アップジョンは、王室セラーの管理官としての重要な役割は保ったまま、輸出業務をリードしていく大切な役割も担っていました。レオナルド・ロウエルはディレクターとして、セラーと建物の管理の責任者でした。セラーは戦時中の彼の活躍によってセント・ジェームス街4番地も含む広さとなりました。
イギリス市場が輸入制限と価格統制によってまだ抑圧されている環境下で、ベリーズは、海外への販路拡大に着目しました。戦時中の大規模なウイスキーの蒸留削減によって、一滴が貴重である状況でした。カティサークの供給が市場の需要に応えるには20年掛かりました。
ヒュー・ラッドは戦争の間、一生懸命に働いていました。そして、1946年に、脳卒中を患います。1949年4月まで命はつないだものの、病気は限界まで進んでしまいました。彼のいない間は4人のディレクターたちが日々の経営を賄っていました。ラッド婦人は経営幹部ではありませんでしたが、1965年に、アンソニー・ベリーが引き継ぐまで、有能な会長として君臨しました。 アンソニー・ベリーは、ジョン・ラッドに引き継ぐまでの20年間会長を続け、1985年に引退しました。
1961年と1971年の間に、カティーサークは米国市場を完全に支配し、販売が年間250万ケース以上となりました。1960年代がアメリカの時代であったならば、70年代は日本の時代といえるでしょう。1979年までは1年あたりおよそ50万のケースを販売していました。複雑な日本の市場でトップシェアに挑戦している間、 他の国々ももちろん視野に入れていました。1970年までには、ニューカレドニア、ネパール、タヒチ、台湾も含め、100カ国以上で販売されていたのです。
ジョージ王朝時代の雰囲気を醸し出すセント・ジェームス街3番地と伝統的なイメージにより、ファサードの後ろにあるその最先端の経営法とシステムは隠れていますが、有名なオーク材のパネルと羽ペンを使って商売をしていた頃の雰囲気を残しつつも、実際の業務は最先端のシステムで管理されています。
ワインに関しては、1967年に、温度制御されたセラーがベイジングストークに建設されました。以来、保税倉庫部門、サテライトオフィス、モダンなテイスティングルーム、小売店と拡張を続けています。
コーヒー・ミルの看板の下で細々と商売を始めたボーン未亡人とウィリアム・ピッカリングは、これまでの成長が独自性と評判だけによるものではないということに安堵しているかもしれません。
ベリーズは"カティーサーク"の隆盛によって認知されましたが、一方で、ワインに対する伝統的なアプローチの価値もその評価を高めました。ディスカウントや過剰広告などの方法ではなく、お客様のメリット、価値、そして質の高いサービスを通じて販売しています。毎年、テイスティングのプロが海外のワイン畑を訪れ、数百もの異なったワインを味わい、厳選するという取り組みを続けることが大切なのです。
"セント・ジェームス街3番地の店舗に入ると、ベリーズの表と裏の差に驚かされることでしょう。1698年以来、その顧客リストは、まるでイギリスの政治社会史のインデックスであるかのようです。 今日では、多くの顧客たちが気軽に立ち寄っては、1−2本のワインを買い物袋の中に入れて持ち帰っています。しかし、お店に入れば、常連の大富豪たちと変わることのない、温かい歓迎を受けることができるのです。" (The Timesより)
2017年12月1日、リジー・ラッドがサイモン・ベリーから会長の座を引き継ぎました。リジーはベリー・ブラザーズ&ラッドでのキャリアをマーケティングからスタートさせ、最初の仕事はベリー・ブラザーズ&ラッドのオリジナルウィスキー、カティー・サークというブランドの名声をグローバルに高めることでした。
約10年後、リジーが家庭に注力するために会社を離れるとき、彼女はノン=エグゼクティヴ・ディレクターという立場で役員に指名されました。そしてサイモン・ベリーの会長就任に伴い、副会長に任命されました。
リジーは、執行役員会と並列して存在する家族役員会の設立においても根幹となる役割を果たし、執行役員会内で行われた構造改革と管理運営においても必要不可欠な存在でした。
2015年に新しいCEOが着任してからは、ラッド家とベリー家の一族を代表し、ベリー・ブラザーズ&ラッドのビジョンを伝える役割の中心を担ってきました。このビジョンは、会社を計画した方向に導くだけでなく、ベリー・ブラザーズ&ラッド全体としての戦略そのものの拠り所となってきたのです。
ノーフォークの自宅に戻り、ワインやスピリッツ業界から離れた時の彼女の関心は、専ら植物や薬草にあります。認定された栄養学者であり、自然療法医でもある彼女は、自身で育てたり収集した様々なハーブや植物を使い、染料や煎じ液を作って楽しんでいます。
弊社の歴史 History of Berry Bros.Rudd
ベリー・ブラザーズ&ラッドは、英国最古のワイン&スピリッツ商であり、創業以来300年以上もの間、同じ店舗で営業を続けています。
ベリー・ブラザーズ&ラッドの歴史は、1698年、ボーン未亡人によって、ロンドンのセント・ジェームス街3番地にて始まりました。今日もなお、ベリー家とラッド家の子孫により、その家族経営のワイン商は引き継がれています。
1765年には、'コーヒーミルの看板'を掲げ、評判の高い'コーヒーハウス'(後に、ブードルズやホワイトのようなクラブとなる)であり、大きなはかりでお客様の「体重測定」を行っていました。お客様の測定記録には、ロード・バイロン、ウィリアム・ピットやアーガー・ハーンなどの名が記されており、今日に至るまで3世紀以上の歴史が刻まれています。
ベリー・ブラザーズ&ラッドが初めて英国王室にワインをお届けしたのは、ジョージ3世時代にさかのぼり、そして今に続いています。最初の王室御用達指定を賜ったのは、1903年のエドワード7世の頃で、現在は、エリザベス女王陛下とチャールズ皇太子殿下からそれぞれ御用達指定を受けています。
1923年には、初めての無着色スコッチとして、カティーサーク・スコッチ・ウィスキーを造りました。近年では、良いヴィンテージのシングルモルトが、ベリーズ・オウン・セレクションのレーベルで発売されています。
歴史や伝統的なサービス、品質の維持、出自と保管に重きを置きつつ、最も革新的で近代的なワイン&スピリッツ商を目指しています。
今日では、香港のショップの他、日本に支店を構えています。また、2つのワインスクールを運営し、ロンドンのセントジェームス街の荘厳なアーチ型天井のセラーには、特別なファインダイニングを備えています。
一人でも多くのお客様にワインの魅力をお伝えすること、より美味しく飲んでいただくために最善のサービスとアドバイスを提供することがベリー・ブラザーズ&ラッドの使命であると考えています。
ベリー・ブラザーズ&ラッド - 主要な出来事 Key Dates
ベリー・ブラザーズ&ラッド − 初期 Early Days
1660年、世襲的君主の復活直後の頃を想像してみてください。セント・ジェームス・パレスを背に立ち、ピカデリーの方向を北に見ると、そのすぐに左側にバークシャー・ハウスが見え、右にはパル・モールと、チューダー様式の建築物が立ち並ぶセント・ジェームス街が現れます。
1698年、ボーン未亡人が食料雑貨店(コーヒーミル)を開くためにセント・ジェームス街3番地を独占したときも、ほとんど変わらない光景でした。今日、1690年代と同様に、コーヒー・ミルの看板は、今もなお、そこに掲げられているのです。
3番地はボーン未亡人の手によって守られてきましたが、その後、娘、エリザベスがウイリアム・ピッカリングに求愛されました。また、1731年、現在はピッカリング・プレイスとして知られているピッカリング3番地を貸してくれていた下院議員のトーマス・ハンマー侯爵からも求愛されました。
1734年、ウイリアム・ピッカリングが亡くなると未亡人エリザベスがそのビジネスを引き継ぎ経営を担いました。そして1737年、息子のウイリアム・ジュニア・ピッカリングとジョン・ピッカリングに食料雑貨店とあの"盾形紋章の画と紋章の服飾品"を譲りました。
今日でも、セント・ジェームス街から入る1階に足を踏み入れると、有名な訪問者たちが大きな測りで体重を計り、羽ペンで体重を記録していた日々にいるような気分を味わうことができるでしょう。
ジョン・ピッカリングは1754年、適切な相続人が無いまま、彼の兄弟ウイリアムはメアリ・クラブとして生まれた母親を通して、遠縁のジョン・クラークをパートナーに選びました。
クラークは1788年に亡くなり、息子がいなかったため、エクセターでワイン商をしていたジョン・ベリーと結婚していた娘メアリーとその息子ジョージ・ベリーに譲りました。当時まだ1歳でしたが、すでに祖父によってあのコーヒー・ミルの跡取りとして指名されていました。
The Berrys ベリー家
ジョン・クラークの孫のジョージ・ベリーは、1803年、まだ16歳でありながら、2日間かけエクセターから旅をしました。7年間は、見習いとして働き、1810年までにはセント・ジェームス街3番地周辺でその名を知られるようになりました。
1838年に、チャーチスト暴動がイギリスの地方で猛威をふるって、ロンドンに衝撃を与えました。ジョージ・ベリーは、 友人、ルイ・ナポレオン王子に同伴し、特別巡査に就任しました。 このルイ・ナポレオン王子(1851 年フランス第二帝政の皇帝、ナポレオン3世として知られる)は、3番地とは深く関係しています。2年間ロンドンに滞在したおり、(評判だった)"スタンダード"の編集者シェラーとのいろいろな密会に地下貯蔵セラーを使用していました。
1854年、ジョージ・ベリーが他界し、二人の息子、ジョージとヘンリーに引き継がれました。こうして、"ベリー・ブラザーズ"のスタイルが出来上がり、90年間ほぼ変わることなく受け継がれています。
ジョージ・ベリー2世は7人の子供がいました。古い分家は、その代表となるためヘンリー・ベリーが選ばれ、兄弟の本家は若く、12人子供のうちの一人、ヘンリー・パーシヴァル・ベリーによって後継されることとなりました。
やがて、これらの2人のいとこ、年上のフランシス・ローレンス・ベリー、および年少のチャールズ・ヴァルター・ベリーが後任となりました。
この時期までには、フランス、ドイツの伝統的な地域のワイン、ブランデー、リキュール、及びウイスキーが中心の価格表に、コンスタンシア、トカイ、トスカナのモンテプルチアーノなどの珍しいワインも加わるようになっていました。ヘンリー・ベリーこそがこの方針を確立した一人であり、1880年から1907年の間、この3番地を取り仕切っていました。 しかし、フランシスとヴァルター・ベリーの二人は、会社に変革が必要な時期になったと感じていました。
キングス・ジンジャー・リキュールの誕生は、それぞれの世代の違いと強みを示しています。 エドワード・キング7世の治世初期、ベリーズに王室の医師から連絡がありました。"馬なしの馬車(自動車)"で外出した際、王様が寒気を感じており、それを治すために何かないだろうかというものでした。ヘンリー・ベリーは直ちに"ジンジャー・ブランデー・スペシャル・リキュール"と呼ばれていたオリジナルのブランデーとしょうがのリキュールをつくりました。その3年後の1906年、そのリキュールは価格表に加えられ、1934年、「キングス・ジンジャー・リキュール」に名前を変更し、現在に至っています。
The Rudds ラッド家
1914年まで、ヒュー・ラッドはワイン取引業界で働いていました。まずはロンドン、そして欧州全土。1903年からは彼の父とともにノリッジのワイン商、R.G.ラッド&サン社で働いていました。しかし、戦争が終わると、ノリッジはワインにとって大切だった場所を手放すこととなりました。父との同意書によってメジャー・ラッドはベリー・ブラザース・アンド・カンパニーのジュニア・パートナーとして働くためにロンドンへやってきたのです。
彼が3番地にやってきたのは、まさにタイムリーでした。 ウォルターとフランシス・ベリーのようなボルドーの赤ワインに対するすばらしい審美眼をもっていました。これこそ、ベリー・ブラザーズの必要条件だったのです。
しかしながら、彼には、また、ドイツのワインに関するまさるものがない知識がありました。ラインとモーゼルのあらゆる領域のブドウ裁培、アルコール発酵、および開発のすべての知識に明るかったのです。
彼の味覚は彼の知識と同じくらい正確でした。そのため、1921年の傑出しているヴィンテージが市場に出たとき、彼のアドバイスは、ベリーズのセレクションをさらに優れた、素晴らしいメリットを得ることを可能にしました。これまで以上に、その評判をさらにゆるぎないものにしたのでした。
Cutty Sark カティサーク
1923年3月23日、ベリーにとって重要な歴史が刻まれました。
ウィスキーについて議論する着席の昼食会は、スコッチ作りの有名なアーティスト・ジェームス・マックベイとパートナーたちが同席をして行われました。ベリーズは既に独自のスコッチウイスキーブランドを顧客の自宅に販売していましたが、戦前、米国のプライベート・カスタマーに少量だけという具合でした。酒類醸造販売禁止という悲惨な実情はいつまでも続かないと兆しがあり、輸出のため何か新しく独特なブレンドを求めていました。
いとこのウォルター・フランシス・ベリーが素晴らしいコニャックの権威だったように、最も高質で最もデリケートなウィスキーだけからブレンドするべきだという意見を支持していました。自然な淡い色で瓶に入れることになりました。これまで彼らが楽しんでいた、優しくて香ばしい味わいを壊し、マスクをかけてしまうキャラメル色を避けるためものでした。しかしながら、それは重くてどっしりとした、おしゃれでダークなスコッチ・ウイスキーとはかけ離れていたのです。
新しいそのスコッチ・ウイスキー・ブレンドが欠いていたすべてのものは、名前とシンボルでした。ちょうどそのとき、ちょうど長い年月を経て戻ってきていた有名な快速帆船「カティー・サーク」がポルトガル旗の下、取引されるというニュースでもちきりでした。優秀な船員だったマックベイは、この新しいウイスキーのため、賞賛に値する名前であると示唆しました。また、何もよりスコットランドらしく、ロバート・バーンズの「タム・オー・シャンター」 から取られていたのです。(カティー・サークは「短いシュミーズ」を意味します)。
また、マックベイはラベルのデザインもかって出ました。彼が描いたものはほとんど変わることなく、手書きの文字と"Scots"さえも、今日もそのまま使われています。
マックベイは、また年号にクリーム色の陰をつけることを提案しましたが、偶然にも印刷会社が華やかな黄色を使用したため、それを採用することにしました。
1920-1945年
2回の戦争の間に、ベリー兄弟とヒュー・ラッドは着実に、より大きな価値ある企業を確立ししました。 1931年、彼らはウィリアム・ピカリングとジョン・クラークによってもたらされた3番街を最大限に広げました。 この恵まれた環境により、1731年、元々の土地所有者の直系子孫であるチャールズ・バンベリー卿が新たな借地契約にサインをしました。しかし、会社が自由土地保有を取得したのは、1966年のことです。
1931年の調印を祝うディナーを準備したダフティ軍曹は、3番地でシェフとして39年間勤め、その料理の腕前は伝説となっていました。また、ストレンジとブラウンの二人もその時代長きに働き、お客様を満足させ続けた素晴らしい人物でした。
成功は一家を繁栄させ続けましたが、常に好調だったわけではありませんでした。1936年、引退の5年後、59歳でフランシス・ローレンス・ベリーは突然他界してしまいした。彼の長男ジョージ・ベリーは既にウォルターの息子、レジナルド・ベリーとともにジュニア・パートナーに成長しており、一家の栄華は約束されているように思われていました。 しかし、1939年3月、体を壊したレジーは引退することになり、1941年、アフリカ北部で活動していたジョージ・ベリーは命を落としました。また、ジョージの弟アンソニーが会社に入ることになっていましたが、R.N.V.Rの徴兵として、任務遂行のために呼び出されてしまいます。 そして、間もなく、ウォルター・ベリーも去ってしまったのです。
社員が大幅に減った状態の中、ヒュー・ラッドが彼らとともに経営を管理しましたが、 それはあまり楽しいことではありませんでした。次から次へと起こる問題は、概して悲惨なもので、唯一の穏やかな事は大切な顧客をもてなすことでした。
戦中、戦後時代
終戦を迎えた直後、3番街の経営陣は、兵役を終えて1943年に戻ってきたジョンの息子、ヒュー・ラッドの指揮の下、アンソニー・ベリー、ケネス・アップジョン、およびレオナルド・ロウエルとなりました。
法律と財政的な理由で、1943年、会社は有限会社になりました。 ヒュー・ラッドが会長と組織統括ディレクターを兼任しました。ケネス・アップジョンは、王室セラーの管理官としての重要な役割は保ったまま、輸出業務をリードしていく大切な役割も担っていました。レオナルド・ロウエルはディレクターとして、セラーと建物の管理の責任者でした。セラーは戦時中の彼の活躍によってセント・ジェームス街4番地も含む広さとなりました。
イギリス市場が輸入制限と価格統制によってまだ抑圧されている環境下で、ベリーズは、海外への販路拡大に着目しました。戦時中の大規模なウイスキーの蒸留削減によって、一滴が貴重である状況でした。カティサークの供給が市場の需要に応えるには20年掛かりました。
ヒュー・ラッドは戦争の間、一生懸命に働いていました。そして、1946年に、脳卒中を患います。1949年4月まで命はつないだものの、病気は限界まで進んでしまいました。彼のいない間は4人のディレクターたちが日々の経営を賄っていました。ラッド婦人は経営幹部ではありませんでしたが、1965年に、アンソニー・ベリーが引き継ぐまで、有能な会長として君臨しました。 アンソニー・ベリーは、ジョン・ラッドに引き継ぐまでの20年間会長を続け、1985年に引退しました。
1961年と1971年の間に、カティーサークは米国市場を完全に支配し、販売が年間250万ケース以上となりました。1960年代がアメリカの時代であったならば、70年代は日本の時代といえるでしょう。1979年までは1年あたりおよそ50万のケースを販売していました。複雑な日本の市場でトップシェアに挑戦している間、 他の国々ももちろん視野に入れていました。1970年までには、ニューカレドニア、ネパール、タヒチ、台湾も含め、100カ国以上で販売されていたのです。
現在のベリー・ブラザーズ&ラッド
ジョージ王朝時代の雰囲気を醸し出すセント・ジェームス街3番地と伝統的なイメージにより、ファサードの後ろにあるその最先端の経営法とシステムは隠れていますが、有名なオーク材のパネルと羽ペンを使って商売をしていた頃の雰囲気を残しつつも、実際の業務は最先端のシステムで管理されています。
ワインに関しては、1967年に、温度制御されたセラーがベイジングストークに建設されました。以来、保税倉庫部門、サテライトオフィス、モダンなテイスティングルーム、小売店と拡張を続けています。
コーヒー・ミルの看板の下で細々と商売を始めたボーン未亡人とウィリアム・ピッカリングは、これまでの成長が独自性と評判だけによるものではないということに安堵しているかもしれません。
ベリーズは"カティーサーク"の隆盛によって認知されましたが、一方で、ワインに対する伝統的なアプローチの価値もその評価を高めました。ディスカウントや過剰広告などの方法ではなく、お客様のメリット、価値、そして質の高いサービスを通じて販売しています。毎年、テイスティングのプロが海外のワイン畑を訪れ、数百もの異なったワインを味わい、厳選するという取り組みを続けることが大切なのです。
"セント・ジェームス街3番地の店舗に入ると、ベリーズの表と裏の差に驚かされることでしょう。1698年以来、その顧客リストは、まるでイギリスの政治社会史のインデックスであるかのようです。 今日では、多くの顧客たちが気軽に立ち寄っては、1−2本のワインを買い物袋の中に入れて持ち帰っています。しかし、お店に入れば、常連の大富豪たちと変わることのない、温かい歓迎を受けることができるのです。" (The Timesより)
Lizzy Rudd リジー・ラッド
2017年12月1日、リジー・ラッドがサイモン・ベリーから会長の座を引き継ぎました。リジーはベリー・ブラザーズ&ラッドでのキャリアをマーケティングからスタートさせ、最初の仕事はベリー・ブラザーズ&ラッドのオリジナルウィスキー、カティー・サークというブランドの名声をグローバルに高めることでした。
約10年後、リジーが家庭に注力するために会社を離れるとき、彼女はノン=エグゼクティヴ・ディレクターという立場で役員に指名されました。そしてサイモン・ベリーの会長就任に伴い、副会長に任命されました。
リジーは、執行役員会と並列して存在する家族役員会の設立においても根幹となる役割を果たし、執行役員会内で行われた構造改革と管理運営においても必要不可欠な存在でした。
2015年に新しいCEOが着任してからは、ラッド家とベリー家の一族を代表し、ベリー・ブラザーズ&ラッドのビジョンを伝える役割の中心を担ってきました。このビジョンは、会社を計画した方向に導くだけでなく、ベリー・ブラザーズ&ラッド全体としての戦略そのものの拠り所となってきたのです。
ノーフォークの自宅に戻り、ワインやスピリッツ業界から離れた時の彼女の関心は、専ら植物や薬草にあります。認定された栄養学者であり、自然療法医でもある彼女は、自身で育てたり収集した様々なハーブや植物を使い、染料や煎じ液を作って楽しんでいます。